con amore

初期メン男子、推し語り



初期メン男子、推し語り

 小四の時、最初に好きになったのは上杉だった。
『緑の桜は知っている』で、立ち去る上杉を一所懸命に止める彩の言葉に「みんな認めてる」と言っていたのがきっかけだったと思う。
 それまでのクールで冷ややかな上杉くんなら思っても口にしなさそうなのに。でも、ほかの余計な言葉は一切なかったから、アーヤの懸命さを受け取った上杉くんが、きっと少しおそるおそる、そっと言葉にした柔らかな本心なんだろうな。と、思ったのを今でも覚えている。
 KZ'Dを初めて読んだのは中一の時で、臆病と優しさと自意識の狭間で色んなものに影響を受けて揺れて足掻いて、それでも凛といようとしたい彼の青さは、当時の自分にも苦く刺さって痛かった。大学生になった今でも、読み返すとあの時の苦みが蘇る感覚があるほどで、でも、そうしてままならない彼だからこそ殊更に愛おしく、そして、綺麗だなと思う。
 孤独に一匹狼で学生生活を過ごした自分には青春なんていう時間は無かった。ただ、自分と似たところを持つ上杉が過ごすKZ’Dの日々は、私が幼稚園の頃から作ってみたいと思いつつ終ぞ作れなかった綺麗な泥団子に似ていて、私は彼を通して自分の経験したかった経験し得なかった青春の時間を過ごしたように思う。
 彼は、自分の唯一の心の同志でもあった。
 ――支配されるくらいなら愛なんていらない。ふと母の顔を思い出す。ほしいのは自由だ。自由に生きたい。きつくても、うまくいかなくても平気だ、いい思いをしなくてもいい、痛い目に遭っても構わないから、自由でいたい。――
 彼の母のような親を持っているわけではないが、親を起源とした精神的な自由を求めていたのは同じだった。小学六年生の時に友人から見せてもらった外の世界が記憶の中心に強く刺さっている。それ以来ずっと、精神には檻があること、価値観とは檻になり得るものであること、そして生きている限りはその檻から逃れられない人生を苦しく思っていた。肉体的な死よりも、精神が檻の中で死にゆくことの方が恐ろしかった。
 自由でいたい、愛が檻になるならば愛もいらない、ひとが檻になるならば孤独でいい、自由でいたい、思いっきり呼吸がしたい。
 上杉は、いつしか、私にとって心の同志のような存在になった。前に出した『桜坂は罪をかかえる』の独白は、何か心の中で荒波が起きるたびに思い出していた。ほとんど暗記できるほど、いつかにつけた付箋もそのまま、本棚に置いてある。
 実際、私はどうも上杉と似ているらしい。妹は常々、私と似ている人に出会ったことがないと言うが、唯一、上杉和典だけは似ているそうだ。と、すると。
 妹が私を評した「人間が嫌いだけど人間を愛してる」というのは、上杉にも当てはまるのかもしれない。彼は、人嫌いなのに小さなヒーローだから。

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 『桜坂は罪をかかえる』を読んで、若武の魂に恋をした。
 といっても、恋人になりたいとか結婚したいとかではなく、ただ、若武の魂を見つめながら生きる人生はどんなに心が熱くて熱くてわくわくするだろうという思いで、名前をつけるなら恋がロマンチックだなというだけなのだけれど、こういう変なキザな想像をわくわくさせちゃうのが若武の魅力のようにも感じている。
 最近気がついたこととしては、自分の足で漕いで漕いで前のめりになるほど速くなり風を切る自転車ってほんとに、若武によく似合うなということ。水も滴る良い男なんて言うけれど、若武はそれに憧れを持ちながらも汗を惜しまずに走り続ける強さが良い。
 若武和臣という少年は、とても英雄に似ている。でも、完全無欠のヒーローではないんだよね。失敗はするし選択を間違えることも全然あるし全てを救える人でもない。そこはどんな人とも同じ。
 ただ、彼は一発壁を思っきし蹴ってどデカい穴を開けて太陽の在処を見せつけてくれるような瞳を持っているから、英雄に見える。見えるのだけど、若武は運や特別な何かを持っているだけでなく、一つどデカい穴を開けるために同じところを蹴って殴ってという時間をコツコツコツコツ何度も何度も、汗だくになって朝から晩までやれる努力家なのだ。
 そこが、私が若武を好きな理由で、きっと彩や彼らが若武のウェーブやミーハーに呆れたその目で若武に判断を仰ぎ、頼んだと若武に振られた仕事は了解と引き受け、一か八かの大勝負の時の場の鍵を迷いなく若武に預ける理由なのだと思う。
 自分のカッコ良さをわかっていて、自分の強さを信じていて、自分が信じられていることを理解していて、自分の得たいカッコ良さのために自分の全てをかけられる若武は、ただカッコ良くいたい小さな子どもではない。戦場で最初に立って拳を上げ、最後に立ち上がってピースをするヒーローなのだ。
 汗だくの若武は世界一良い男。そう伝えたら、彼は宇宙一良い男になる気がする。まったく、不思議なことに、なんだこのガキんちょ、と思った次の瞬間には、なんてカッコイイ男なんだ、と思う。どうしても惹かれていく。
 KZをずっと見ていたい大きな理由の一つは、若武だ。
 人は大抵の場合、日々を過ごしていく中で次第に摩耗していくというのに、若武というのは何故か、磨かれていく。大人になることを「失った」と言う人が多い中で、若武は「得ていく」のだ。
 自分が自分であることに無自覚に自信がある、あんな純粋さは、あんなに綺麗な瞳は、そうないだろう。若武がどこまで磨かれていくのか、いくらでも期待して楽しみにしていい。若武は、そう思えるような男の子だった。

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 歳を重ねるごとに尊敬が増すのが小塚くんだった。
 若武の強さが熱い心臓を持つ魂の強さだとしたら、小塚くんの強さは清廉な魂を持つ命の強さ。堅実さと信じるという運を同居させられる強さ。
 私は「真摯」を自分の在り方のテーマの一つにしているのだけれど、真摯さの持つ一つの強さの形はきっと、小塚くんのような優しく気高く温かい強さなのだと思う。もう当時の小塚くんの年齢を越えてしまったものの、いくつになっても、十四歳であの強さを抱いていて、それを誰かに明け渡す優しさと勇気まで持ち合わせる小塚くんには届かない気がしている。
 すごく好きな小塚くんの言葉がある。
 ――「家族を亡くしても、夢が叶わなくても、そこで終わりじゃない。諦めずに進んでいけば、きっとまた違う幸せを見つけられる。聖書の中に、そう書いてあるもの。僕は信者じゃないけど、困った時は神頼みっていうだろ」――
 『いつの日か伝説になる』で小塚くんが健斗にかけた言葉で、今読んでも心に染みる。
 人に頼ることをカッコ悪いと言いたくなるのが、思春期だ。私など、もう十九にもなって未だにそういうところがある。一人で立ち上がってこそカッコよくて、信じるものを自分一人ででも守るのがカッコいい。できなかったら一人で破滅する方がカッコいい。無茶とわかってもそんな強さを持っていたい。
 でも小塚くんは、信者じゃなくても困ったら神を頼っていいし、諦めずに進むための手伝いを僕たちはできる、一人じゃなくたって人に手伝ってもらったって幸せは見つけられると言う。なんて大人で、なんて優しくて、なんて強いんだろうか。いや、強いという表現は少し違うかもしれない。小塚くんの強さは、独りよがりのものでも誇示するものでも弱くない証明でもないのだから。
 弱くないことが強さの証だと思っていた。弱さを見せないことが強さの証だと。でも、それが少しできるようになった時に気がついたのは、弱くない強さは諸刃の剣だということだった。そんな時に思い出した小塚くんのこの言葉。
 確かに小塚くんは、若武たちのような抜群の運動能力や反射神経を持ってはいない。でも誰よりも自分のできることとできないことを分かっていて、できることは必ずやり遂げるしできないことは迷わず人に頼る。頼るという行動は、自分のことをよく知っていて、更に人を信じることができてこその行動だ。自分を信じて大切にしてくれる真摯な人だとわかるから、みんな、小塚くんを大切にするのだと思う。
 小塚くんは不思議な人だ。私はたぶん、彼のことが一番わからない。あの優しさと強さ、寛容さは、歳を重ねるごとに不思議でならなくて、なぜああ在れるのか。どうしたらそう居られるのか。一時期ずっと考えていたことがあった。
 自然という、理不尽であろうと不平等であろうと、どう転ぼうがありのままでしかない世界にずっと触れてきた小塚くん。きっと、小塚くんが持つフラットな寛容さは、世界がそう綺麗なだけでないと理解しているからこそのものかもしれない。そんな世界にただ触れてきただけでなく、そこに愛着を抱いている小塚くんだから、綺麗事の優しさではなく心から優しいのかもしれない。
 そうだとしても、それでもどうしてあんなにも人に対して世界に対して、穏やかに寛容に公平に優しくいられるのか。
 小塚くんって、いつでもいつまでも隣にいてくれる気がするほどささやかな人なのに、どこまでも手が届かない柔らかな眩しさがある。どうして彼はあんなにも温かいのだろう。逆にどうして、彼のような温かさを、人は、私は、持てなかったりするのだろう。きっといくつになっても小塚くんのような思慮深いピュアさは私の憧れのひとつだと思う。

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 黒木は、視点によっても私の年齢ごとにも印象が変わる人で、これからも変わっていくかもしれないと思っている。
 小学生の時に青い鳥で彩と一緒に見ていた“黒木くん”は、いつだって私の先生だった。今でも私の生き方に影響を与えている言動は、思いつくだけでも三つある。友だちは結果じゃなくて過程を評価する、取られていない新聞を見て空き巣や住人の安否まで考えが及ぶ観察眼と視野、好きなものにはお金を払わないと貢献できない。
 彩と同じく世間知らずで見える範囲のものしか考えられなかった小学生の私が、いつからか同い年の同級生に精神が大人だ褒め上手だ洞察力があると言われるようになったのは、黒木くんの教えがあったからのような気がしている。黒木くんのような大人になりたいと思っていた。
 ところが不思議なことに、黒木の年齢を超えた数年前から、黒木の在り方、余裕を纏いながら他人事のようにものを発しつつ内面では足跡ひとつで自分の傷を舐めていくような自虐的な生き方は、度々私を自己投影させ、彼は自分と表裏一体な存在だと錯覚させてくるようになった。
 環境的な面で、私はこれまでどこに属していても異端となるレッテルを持っていた。レッテル自体は普通でも、周りが持つものと違えばそれは異端となる。孤立しても群れなくても自分を崩さずのらりくらりと生きていたが、どこにいても自分の席だけ異質なものに見えた。
 ここも、私の居場所ではない。本当にここは現実なのだろうか。足元に地面を感じないけれど、幻じゃなかろうか。
 そんなのは勝手に他者との間に張っている薄い膜からくる自意識でしかないのだけれど、私は未だ、自分の椅子だと思える席を見つけたことはなかった。
 妹や昔からの友人に「急にいなくならないでよ」と言われたことが何度かある。確かにふとした時、誰も私を知らない何の繋がりもない砂漠に行きたくなることがあった。スマホも何も持たずにふらっと散歩に出かけて数時間帰らないこともある。もしかして砂漠なら現実があるだろうか、歩いていればどこかでこの幻から目が覚めるだろうか、と。
 私は黒木と同じ出生ではないし黒木ではないから、その思うところをわかるはずがないのに、何故だかある頃から、目を瞑ると背中合わせに黒木がいるような気がする。私の先生だった黒木くんは、いつの間にか、思っているよりも身近な友人になっていた。
 でも一つだけ、黒木に対してずっと変わらない印象がある。「人をとても大切にしている人」という所だ。
 事件の話をするとき、黒木だけがとても大人に感じるのは、彼は常に事件だけではなくそこに関わる他人や社会の一端について気にかけているからだと思う。視野の広さは出生も関わっているだろうけれど、それだけではなく、黒木が社会をただの枠としてではなく人の過ごす世界として見ていて、人を自分とは無関係の誰かではなく温もりある人として見ているからこそできることではないかな、と感じる。
 それは彼がいつも母親の面影を探して世界を見ているからだと思うと切ないけれど、愛を受け取る前に親愛を持って人といられるのはなかなか出来ることではない。黒木はすごい子だと思う。黒木なりに頑張って生きていることをわかっているよ知っているよと言いたい。余裕があって落ち着いていて大人に見えても、毎日それなりに足掻いて頑張っているよね。
 探偵チームKZが黒木の中でコネクションとは別の枠として存在するとしたら、それは、存在が非日常である黒木にとってKZは当たり前の日常を感じられる所であり、KZの皆の日常が黒木にとって唯一の当たり前に温かい愛である証になるのかなと考えたりする。黒木にとって温かな場所であってほしい。
 私は、自分自身がどんな重荷を抱えていても人に優しく寛容に在れる、黒木の持つ、ひとや世界への慈愛がとても愛おしい。憎んでも恨んでもいいはずなのに、彼はいつも、社会に世界に人に優しく、大人だった。私は彼に北斗七星をあげたい。どうか彼の前に、道を。

 ***

 私は初期メン男子が好きだ。でも明確に誰が推しというのはいない。
 という立場を頑なに守っていたいのだけど、こうして書いたものを読んでみると、その時々で偏りがあるようにも思う。
 小学生の時は上杉が大好きで眼鏡をフレーム無しに変えてお揃いにしようとしていたし、黒木の言葉を座右の銘のように紙に書いて持ち歩いていた。今では、あの頃の憧れの二人は同じ穴の貉……とまではいかなくとも、隣人のように近い存在で、あの頃ごく普通の同級生だった若武と小塚くんは憧れのような存在だ。
 私の知る彼らは、まだ十代の彼ら。大人になっていく彼らが世界の中でどうやって立ち、歩き、生きてゆく人となるのかは全く想像がつかない。きっと、私が彼らを見つめる眼差しが変わっていったように、彼らも少しずつ変わっていくのだろうと思う。その中で、探偵チームを組んでいた時の仲間がいつまでも特別な存在であったら嬉しいし、同時に、幼い頃の仲間以上に素敵だと引き寄せられるような、より長く人生と心を共に生きていく誰かと出逢える、彩り豊かな人生をどんどん歩んで行ってほしい気もする。
 このKZメンバーに影響を受けて、少し正しいことをしながら少しいけないことをしながら、お互いの友愛を大事に想って、自分に悩んで人に悩んで世界にまで悩んで。そうやってこのKZメンバーになっていく彼らがとてもとても、好きだ。
 素敵な人生を送ろうね、お互いに。
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